生物学

作成の背景

2008年4月、日本学術会議は、文部科学省高等教育局長から学術会議会長宛に、「大学教育の分野別質保証の在り方に関する審議について」と題する依頼を受けた。これを受けて日本学術会議は、同年6月に、課題別委員会「大学教育の分野別質保証の在り方検討委員会」を設置して審議を重ね、2010年7月に回答「大学教育の分野別質保証の在り方について」を取りまとめ、同年8月に文部科学省に手交した。

同回答においては、分野別質保証のための方法として、分野別の教育課程編成上の参照基準を策定することを提案している。日本学術会議では、回答の手交後、いくつかの分野に関して参照基準の策定のための審議を進めてきた。

本報告は、そのうちの生物学分野における参照基準について、基礎生物学委員会・統合生物学委員会合同「生物学分野の参照基準検討分科会」の審議結果をまとめたものである。

現代は、日常生活においても、産業活動においても、また、環境や健康に関する政策立案においても、さまざまな場面で、生物学の素養なしに適切な判断や選択を行うのが難しい時代になっている。遺伝子組換え技術やiPS細胞、ゲノムによる個人識別、生殖補助技術など、生物学を基礎とする先端的技術は、その利用による画期的な効用が期待される一方で、予期せぬ問題を含め、解決の難しい社会的な問題を惹起する可能性も危惧される。新しい技術に関して、個人および社会が適切な判断や選択をするにあたっては、生物学に対する深い理解と最新の知識が欠かせない。また、「持続可能な社会の構築」に向けて「自然との共生」や「生物多様性の保全と持続可能な利用」が重要な社会的目標となった今日、環境保全などにかかわる理念、指針、方策などに関する政策立案にとっても、生物学の知見が基礎となる。

本報告で提案する「参照基準」は、そのような社会的状況のみならず、昨今の生物学分野の研究の著しい発展を鑑みてまとめたものである。生物学に関連する教育課程を開設している大学の関係者をはじめ、大学における生物学教育に関心をもつ方々や生物学と社会との関係を学びたいと考える方々など、社会の広範な人々に利用していただけることを願い、ここに公表する。

報告の概要

(1)生物学の定義

生物学は、あらゆる生物体と生命現象、および多くの生物がかかわりあう自然に関する科学である。さらに詳述すれば、個体・器官・組織・細胞・細胞小器官・生体高分子などの構造と機能、生物の遺伝・生理・形態・発生・分類・系統・生活史・環境応答・行動・生態・進化、生命の起源と歴史、および生物がつくるさまざまな集団(個体群や群集、社会)の動態の理解と解明をめざす広範な学問領域であり、分子から地球生態系までの多階層における、いずれも複雑で膨大な数の要素からなるシステムを対象とする。

端的にいえば、生物学は、生命のしくみと生物の歴史と暮らしを、分子レベルから地球の生物群集のレベルまでの多様な階層と視点で明らかにする学問である。

(2)生物学の固有の特性

生物は無生物と共通の物理学・化学の法則に支配されるが、無生物とは一線を画するいくつかの特徴を合せもつ。全生物に共通する基盤的特徴は、細胞によって構成され、遺伝子をもって自己複製を行い、物質・エネルギー代謝を行い、環境からの刺激に対して適応的な応答をすることである。また、現在の地球上にみられるあらゆる生物が共通の祖先細胞から、偶然・必然が輻輳する複雑な進化の過程を経て、きわめて多様な形態、生活、構造、機能などをもつに至った歴史を共有することも、無生物とは一線を画する特徴である。

生物学が対象とする実体およびシステムは、分子レベルから生態系・地球レベルに至る階層性によって特徴づけられる。上下の階層の間には、複雑な相互作用が重層的に作用するので、還元的な手法では解明や予測の難しい創発的な現象が多く観察される。生命現象のこのような創発性ゆえに、生命現象の解明をめざす生物学は、物理学・化学と共通の還元的な手法のみならず統合手法を含む多様なアプローチをその特徴とする。この統合的アプローチゆえに、生物学は、生命現象の総体として成立する地域の自然の理解にも大きく寄与する。

(3)生物学を学ぶ学生が身に付けるべき素養

生物学に固有の特性を踏まえ、生物学を学ぶすべての学生が身に付けるべき基本的な素養は、短期的・直接的な利用可能性や応用的価値のみに限られず、世代を超えた時間のスケールでの生命の歴史の意義や、生命の存在価値、生物多様性の価値、生命倫理、環境倫理などをも包含する。

生物学は多重入れ子構造で特徴づけられる生物学的階層の諸要素やシステムと膨大な多様性を含む生物世界にまなざしを向ける科学領域であるゆえに、生物学の教育課程を通じて獲得されるべき具体的な能力は多岐にわたる。

理系文系を問わず、基礎教養としての生物学の幅広い分野に対する理解は、生命や環境に関する倫理観の醸成に不可欠である。生物学の視野の広さは、それを学ぶことにより、専門的見地にのみにとらわれることのない人材の養成に寄与する。

(4)学修方法および学修成果の評価方法に関する考え方

生物学を学ぶ上では、観察、実験、実習がきわめて重要な意味をもつ。単に知識や理解を付与するだけでなく、それを実際に活用できる力を培うためには実体験を伴う学びの意義が大きい。したがって、生物学の学修には、講義や演習・セミナーに加え、実験や野外実習を教育課程に取り入れることがのぞましい。生命現象の普遍的な真理の追求の過程において生物を注意深く観察し、仮説をたて、実験し、その結果の統計分析を経て、仮説を検証するという、科学共通の手法を、実際に実験を行うことを通して学ぶことが重要である。多様な生物がかかわりあう複雑なシステムである生態系の理解のためには、フィールドで行う野外実習が欠かせない。

(5)生涯を通じた学修に向けた基盤の形成

急速に発展しつつある生物学においては、最新の知見も少し時間がたてば陳腐化を免れない。生涯にわたって、自ら新しい知識や理解の仕方を学び、自らの知識総体を更新していけるような生物学に対する積極的な意欲と姿勢を、大学における生物学教育の中で身につけていることが必要である。そのためには、教員自身が、生物学における幅広い最新の知見を摂取するための不断の努力を続けることが必要である。