法学

1 作成の背景

2008年(平成20年)4月、日本学術会議は、文部科学省高等教育局長から学術会議会長宛に「大学教育の分野別質保証の在り方に関する審議について」と題する依頼を受けた。このため日本学術会議は、同年6月に課題別委員会「大学教育の分野別質保証の在り方検討委員会」を設置して審議を重ね、2010年(平成22年)7月に回答「大学教育の分野別質保証の在り方について」を取りまとめ、同年8月に文部科学省に手交した。

同回答においては、分野別質保証のための方法として、分野別の教育課程編成上の参照基準を策定することを提案している。日本学術会議では、回答の手交後、引き続きいくつかの分野に関して参照基準の策定を進めてきたが、今般、法学分野の参照基準が取りまとめられたことから、同分野に関連する教育課程を開設している大学をはじめとして各方面で利用していただけるよう、ここに公表するものである。

2 報告の概要

(1)法学の定義

法学は、法を対象とする学問であるが、法は人間社会の規範秩序の一部であり、社会のあり方、人権の保障、社会の安全、経済秩序、紛争の解決などの規範からなり、われわれが社会生活を営む上で不可欠のものであると共に、社会の全般にわたる。法学は、このような法の様々なあり方を明らかにすることを主たる対象とし、人が社会生活を営む上で最も基本的な人と人との関係を規律する規範を主たる対象として様々な角度から考察する学問である。

(2)法学固有の特性

① 法学の一般的性格

法学は、人間が社会生活を送る上で基礎となる規範を学問対象とする。人間の生活領域が極めて多様であることから、これらの法規範も多面にわたる。法規範は、人間が社会生活を営む上で重要な役割を有するが、それは常に一定の価値原理に関係している。われわれの社会では、自由や平等、民主主義をはじめとする様々な価値原理やそれを実現するための実定法規定、さらにその基礎となる法原理や法制度が存在する。法学では、これらを考察の対象とするが、その際、多様な価値観を承認した上で社会に受けいれられる合理的な根拠に基づく判断のあり方などを考察する。

② わが国の法学に固有の性格

わが国の法学は、ヨーロッパ大陸法の影響を受けて「学問としての法学」の性格が強い。また、実定法規範は「制定法」としてのかたちをとり、従来、実定法学の中心は制定法の解釈であった。しかし急速に変化する社会では「立法」のための法学も極めて重要になっている。また法規範は具体的事件に適用されなければならないが、その際には具体的事案における利害の分析と調整が不可欠である。

③ 法学教育の今日の問題点と今後の方向

わが国の社会では今日、著しく「法化現象」が進行しており、様々な問題を法的に解決する必要性が増大している。このため、法曹人口の増大を目的として法科大学院が設置された。もっとも、そこで目指された法専門家は、主として法廷における法的処理を目的とする法曹であった。しかし、社会における法的問題の処理の必要性は極めて多様であり、法廷外においても社会の様々な局面で、法的素養を持った人材が求められている。これらの人材の養成は、従来から大学における法学の専門教育が担ってきたし、今後もこの事情は変わらない。

わが国の法学教育は伝統的に法実務にとらわれることなく、様々な隣接諸学問をも包摂して行うという傾向が見られた。このような法学のあり方は、急速に変化する社会で法学が果たす役割を考える際には極めて重要である。他方で、わが国の法学研究はますます細分化の方向をたどりつつある。このような傾向は、法学教育にも反映している。細分化の傾向により、法学を学修しようとする学生にとっては全体の鳥瞰が困難となり、法学の学修の意義と意欲を失わせる恐れがある。

最近の大学進学率の大幅な増加により、学生の学力に大きな分散が生じていることは事実である。しかし、このような事実を消極的にのみ評価するべきではない。社会の広い層で法学の専門教育を受けた職業人や市民が育成されることは、社会的に見て極めて有益である。

(3)法学を学ぶ学生が身に付けるべき基本的素養

① 大学のユニバーサル化と法学教育

法学教育の目的が多様であることから、法学の教育では単なる法知識の修得が目指されるべきではなく、むしろ、それの基礎となる思考方法や法的素養の修得が目指されるべきである。

② 考えられる基本的素養の内容

法学教育を受けた学生が修得する基本的素養には次のようなものが考えられる。

 a 日本国憲法を中心とする国家規範の構造の理解、特に国民主権、三権分立、基本的人権の尊重

 b 制定法の理解と、その基礎にある様々な価値観や法治主義、適正手続、罪刑法定主義、所有権の保護、契約自由等の法原理の理解

 c 法を運用する様々な機関の理解

 d 法的判断の持つ特殊性の理解

 e 法的判断過程における「説得」の重要性の理解

 f 様々な考え方の分析能力とコンセンサスを得るための調整能力の涵養

 g グローバル化に伴う様々な法的問題とその基礎にある文化の多様性の理解

③ 特定の法学分野を深く学ぶことで得られる素養

法学は、具体的には公法学、民事法学、刑事法学、社会法学、国際関係法学、基礎法学、新領域等の特定分野についての教育がなされてきたが、これらの各分野の特性に応じて得られる素養もそれぞれに異なっている。

④ ジェネリックスキル

法学の学修により、専門的知見のほかにも、人権感覚、公と私の区別、公と私の認識、調整能力、弁論能力、交渉力、組織マネージメント能力、危機管理能力等の修得が期待される。

(4)学修方法および学修成果の評価方法に関する基本的な考え

大学のユニバーサル化に伴い、法学教育への需要は多様化し、その受け手の関心も従来とは異なっており、教育方法もこれに応じたものでなければならない。その方法も、法的知識の修得に限定せず、問題解決能力、文章読解・作成能力の向上、そして何よりも法学の学修へのインセンティブ向上など、多様な方法の開発が重要である。

(5)市民性の涵養をめぐる専門教育と教養教育の関わり

法学は、われわれの市民生活における規範を対象とすることから、その学修では何よりも市民性の涵養が基本となる。この観点からの法学の基礎教育は、専門教育の向上にもつながる。

(6)法学教員の問題

新たな法学教育の実現には、それを担う広い視野と教育能力のある教員の養成が不可欠である。