歴史学

作成の背景

平成20年(2008年)4月、日本学術会議は、文部科学省高等教育局長から会長宛に「大学教育の分野別質保証の在り方に関する審議について」と題する審議依頼を受けた。このため、日本学術会議は同年6月、課題別委員会「大学教育の分野別質保証の在り方検討委員会」を設置して審議を重ね、平成22年(2010年)7月、回答「大学教育における分野別質保証の在り方について」を取りまとめ同年8月文部科学省に手交した。

日本学術会議では、回答の手交後、引き続き各分野の参照基準を作成する作業を進めてきたが、今般、歴史学分野の参照基準が取りまとめられたので、ここに公表することとなった。

報告の概要

(1)はじめに―歴史認識をめぐる今日的状況

学生など、日本の若者たちの間で、自分の身の回りのことにのみ関心が集中して、社会意識、特に歴史意識が希薄化しているということが指摘される。他方、中国や韓国との間には、歴史、特に近代史の理解をめぐって激しい対立が存在し、領土問題などの現実問題とつながっている。このような状況において、広い視野を持った、グローバルな歴史認識の必要性がますます増大している。

(2)歴史学の定義

人類の長い歴史の中で生起した、様々な事象の意味を追究するのが歴史学であるが、本報告にいう歴史学とは、一般的な歴史学や考古学のみならず、美術史、科学史、技術史、法制史、経済史、政治史など、それぞれに固有の諸分野すべてを包摂する概念である。したがって、本報告では、文学部史学科における教育課程といった、学科・専攻ごとの個別的な課題を取り扱うことはしない。

(3)歴史学に固有の特性

歴史学は無限の過去の中から、自己にとって有意義と考えられる事象を自ら選択し、自らの価値観に従って、その意味を追究する営みである。したがって、歴史学的認識は主体的なものであり、認識者の主体性から切り離すことはできない。

しかし、同時に、歴史的認識は「科学的」でなければならない。主体的ということと、「主観的」・「恣意的」ということとは全く異なる。歴史的認識は厳密な実証的手続きによる「史実」の確定に基づかなければならず、また、事象と事象との間の関連性の把握において、論理的でなければならない。ただし、過去を実験によって追検証することは不可能であるから、歴史認識は自然科学(実験科学)的な意味で「科学的」であることはできない。

(4)歴史学を学ぶすべての学生が身に付けることを目指すべき基本的な素養

我々を取り巻く現在の国家や社会、そして個としての人間の在り方を、現象的・現状固定的にではなく、歴史的に形成されてきたものとして把握する能力を身に付けること、これがすべての学生に求められる基本的素養である。

ただし、現在の国家や社会や個人の在り方を歴史的に見ると言っても、その見方は多様であり、唯一の正しい見方などというものがあるわけではない。人はそれぞれの置かれた環境の中で自らの主体性を確立してきたのであるから、その歴史の見方も人により多様である。したがって、自分自身の歴史観を持つと同時に、他者の歴史観を尊重することが求められる。そのことが、諸国民や諸民族の間の歴史観の相違とそれに起因する政治的対立を克服することにつながるであろう。

(5)学修方法及び学修成果の評価方法に関する基本的な考え方

歴史観が多様であり得ることを前提とする歴史学の授業においては、教員の歴史の見方を一方的に押し付けるような授業は望ましくない。一般的な講義や演習の場合でも、学生に問題を投げかけるような工夫が必要であるが、学生間の討論を主とするような授業の在り方をも追求するべきである。例えば、何らかの歴史的トピックス(事象や事件)を取り上げ、それに関連する史資料や文献あるいはモノを提示した上で、学生に報告させ討論するという形態の授業が考えられる。本報告本文では、日本史、外国史、考古学、美術史、科学史、技術史、法制史、経済史、政治史の各分野に即して、具体的なトピックスを示しながら、それぞれの分野の方法的固有性について説明している。これらは討論を主とした授業を行う上での参考になるであろう。

このような、討論を中心とした授業の場合、その学修成果の評価には工夫が必要である。主として、報告の質や討論における積極性、それらを通しての問題の理解度といったことが評価の基準となるであろう。

(6)市民性の涵養と教養教育・専門教育・教員養成課程

過去の政治・経済・文化・環境などについて知ることは、絶えず変化する世界の中で自己と自らが置かれた状況を認識する上で不可欠であり、市民性すなわち民主的な社会に能動的に参加し、その維持・発展に資する力を形成する上でも本質的な意味を持っている。

本報告では、教養教育・共通教育としての歴史学を中心としたが、専門教育課程では、それぞれの専門分野において歴史の学修をさらに深めることが求められる。その場合も、それぞれの専門分野に埋没することなく、本報告で述べてきたような多様な歴史学の在り方を念頭に置くことが望ましい。

最後に、初等・中等教員を養成する課程は、歴史学修を通じた市民性の涵養という課題に対して特に大きな責任を負っていることが改めて確認されなければならない。教員志望の学生たちに、視野の広い、グローバルな歴史認識を持たせるための歴史教育を行うことは大学教員の責務である。このことはあらゆる学部に共通する課題である。